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来歴・人物

いわゆる海軍経理学校出身の「短現組」は、戦後の主計官僚の中でもエリートとして見なされていましたが、長岡もこの線に洩れずに大蔵事務次官まで務めました。

1998年(平成10年)に巨人ファンということもあり、渡邉恒雄のバックアップも受けながらプロ野球セントラル・リーグ会長に内定しながら、当時1995年頃の大蔵スキャンダルの風潮もあったのか就任しました。さらにこの件は、府立一中の後輩で、その後同じく大蔵事務次官まで上り詰めた吉野良彦が日本銀行総裁就任を固辞したことと併せて、よく引き合いに出されもしましたが、当時の斎藤次郎大蔵事務次官ら現役組が吉野、山口光秀、平澤貞昭らを推挙していたのに対して、長岡は当初から自身の次官時代に官房長を勤めた松下康雄を推挙していました。

1981年(昭和56年)7月、日本専売公社副総裁就任。専売公社が日本たばこ産業 (JT) として株式会社化した時に、初代社長として立ち会い、その後大蔵次官経験者の指定席であった東京証券取引所理事長に就任します。その後、国際証券取引所連合副議長当時はちょうど松下康雄らの後継次官争いがあった頃であり、自身の志向する人事案の為に日本人初となる議長ポストには立候補をしなかったと云われています。その他、財団法人資本市場研究会理事長、財団法人アフィニス文化財団理事長。東大ボート部淡青会長、銀杏会長、日比谷高校如蘭会長など。因みに、一中先輩の竹内道雄(元大蔵事務次官)に東大ボート部から大蔵省入りを勧められました。のちに竹内次官 - 長岡官房長ラインを組むこととなり、財務省では森永貞一郎 - 石野信一 - 谷村裕と引き続いて、さらに竹内以下の大蔵省主計本流OBラインが、省内外での主要な人事面でも関与・機能していることがいわれています。泉鏡花など文芸や音楽などに造詣が深いことでも知られています。

大蔵省から金融部門分離案が出た1995年当時、新金融庁は「霞ヶ関」総体でのリシャッフルであるべきことから、他省庁の金融部門も併せて分離統合するべきことを述べました。各省庁の勢力削減で相対的地盤低下防止を狙う大蔵省の焼け太りであるとの批判もでましたが、「霞ヶ関」の制度疲労の観点からは、総体の観点から俯瞰したものとして評価する向きもあります。

また大蔵省内では主計局が他局を睥睨するポジションにありますが、長岡が次官時代に主計に人材を集めすぎたために、他局の相対的な力の低下を招いてしまったとも述べています。